シリーズ「被爆79年 残された時間(とき)」被爆証言を始めた92歳の男性 「1日でも長く証言したい」

7/29(月) 20:30

今週はシリーズとして「被爆79年残された時間(とき)」をお届けします。
初日の今回は今年から被爆証言活動を始めた92歳の男性に迫ります。
生き残ったことを「後ろめたい」と話し、それでも「あの日」の記憶を繋ごうとする姿を見つめました。

広島市中区で週に1度開かれるコーラス教室。
なめらかに指揮する男性…才木幹夫さん、92歳です。
30年以上、この教室の講師を務めています。

【生徒】
Q:才木さんはどんな先生?
「優しい先生。穏やか。まず元気ですよね。私たちの目標の先生です」

【才木幹夫さん】
Q:音楽はどんな存在?
「私にとって音楽っていうのはやっぱり”救い”ですね」

温かい眼差しで生徒たちを見つめる才木さん。
79年前の8月6日、ヒロシマの戦火を目の当たりにした被爆者です。

今年4月、才木さんは自らの被爆体験を伝える「証言者」の委託を広島市から受けました。修学旅行生たちにに証言を行っています。
直筆で何十枚も書いた原稿…
証言活動の時間は1時間ほどです。
県外の修学旅行生にもわかるよう、戦前の広島の歴史や原爆が投下された経緯などを盛り込みます。
しかし、自分の体験を思うように話せないまま終わってしまうのが現状です。

【才木幹夫さん】
Q:1時間は長い?短い?
「短いですね。自分の原稿でありながら消化不良のような感じを持つ」

伝えたいことはたくさんある。
でも、時間は限られています。
もどかしい状況に思わず本音がこぼれます。

【才木幹夫さん】
「やっぱり自分のことを中心にした方がいいのかな」

証言の翌日、才木さんの姿は本川小学校の平和資料館にありました。
自分の被爆証言のヒントを探します。

【才木幹夫さん】
「おーすごい!見覚えのある俯瞰図ですね」

1945年8月6日当時、13歳だった才木さんは「旧制広島県立広島第一中学」の2年生。
予定では現在の広島市中区土橋付近で空襲によって火の手が広がるのをを防ぐためあらかじめ建物を取り壊す「建物疎開」を行うはずでした。
しかし急遽作業は休みに。
才木さんは爆心地から2.2キロ離れた、現在の広島市南区段原の家にいました。

【才木幹夫さん】
「靴を履こうと思ってたんです。屈みこんでる時に。光も見えないんだけど、真っ白いもう体験したことのない強烈な明るさですね。それが体中を覆ったことを覚えていますよ」

目の前に広がる光景は今も脳裏からは決して離れることのない”地獄”そのものだったといいます。

【才木幹夫さん】
「入ってみて本当に焼け野原だからね。何にもないからね。臭いはほんとにもう死臭がたまらなくてね、今でも覚えてる」
Q:もし土橋にいたら…
「土橋だったらもう大変です。即死でしょうね」

才木さんが通っていた学校では353人の生徒が亡くなりました。
その多くは中学1年生です。
4月1日生まれた才木さん。
誕生日が2日だったら中学1年生でしたが、1日早く生まれたことで一つ上の学年でした。生死を分けたこのことに才木さんは生涯苦しんできました。

【才木幹夫さん】
「一期下に(親しくしていた後輩が)2人いるんですよ。校舎の下敷きになって亡くなっている。本当に紙一重でね、学年が違ってたかも分からない。一期下だったかも分からない。話したくない見たくないという気持ちと周囲の人たちが亡くなっていることとか、なんで僕が生きてるんだろうと思うことがあるんですよ。それが今になったらおかしいけど、後ろめたさを当時の人はみな持ってましたからね。”生きているつらさ”というのはあるんですよ」

「後ろめたさ」「生きているつらさ」…そう表現した才木さん。
自らの被爆体験を人前で話すことは78年間、ほとんどありませんでした。
しかし、ある出来事が才木さんを突き動かします。
ロシアによるウクライナ侵攻でしす。
核の使用にも言及する大国に憤りを感じています。

【才木幹夫さん】
「侵略戦争はいけない。自国のために他国を戦争に陥れるわけですから。90という歳を自分で感じてこれはもう”急がなければいけない”ということで(証言を始めた)」

およそ1時間半かけて資料館の中を見て回った才木さん。
展示品に込められたメッセージから気づいたことがありました。

【才木幹夫さん】
「もっともっと絞り込んでひとつの事象を深く掘り下げて説明していったほうがいいと思う。私の体験を伝えていきたい」

資料館の訪問から4日後…広島市内の寺で証言をする機会がめぐってきました。

【才木幹夫さん】
「(きょうは)もっともっと”自分のこと”を言おうと思う自分に関わること、関わったことそういう原爆体験を(話して)いこうと思います」

集まったのは原爆で親族を亡くした人や留学生などおよそ100人。

「強烈な真っ白い光が見えました。途端に家が崩れて真っ暗になります。ほんの瞬間の出来事です。空にはものすごい炎の煙でしょ。地上には焼け崩れ、散乱した建物。まさに想像を絶する光景。そういう修羅場も序の口にすぎません」

原爆のむごさを肌で感じて欲しい。
伝えたかった思いが証言に溢れます。

「被爆者たちが男女の区別が分からないぐらい大変な格好をしています。頭が真っ黒で、膨れあがってもう目も開けられない状態。その姿を見て哀れみと怒りと本当に湧き上がってきました。被爆者たちはですね。前の人の肩や焼けちぎれた服の切れ端をつかんでいた。目がそんなに見えませんから列を組んで歩いている。そして「水をください」って言う。ポンプで水汲んでどんどん(水を)あげた(被爆者は)本当に静かに水を飲んで、頭を下げて「ありがとうございました」と言って列の後ろに去っていく。水を飲まして良かったのか悪かったのか私も見当がつきません」

記憶をありのままに語った1時間。
最後に伝えたのは平和のために勇気ある一歩を踏み出して欲しいという”願い”です。

【才木幹夫さん】
「争いのない世界の実現に欲望の世界からわかちあう世界に発想を転換していかなければいけないと思います。平和とは身近なところからまずその思いというものを勇気を出して今度は行動に移して行くということが大切ではないかと思うんです」

【中国から留学生】
「過去の政治問題から今も考えるべきところはいっぱいあるから、これから国際の政治問題や他の問題、色々注意しなけらばならないと思います」

「後ろめたさ」をかかえながら生きてきた79年間。
でも今は、志半ばで亡くなった被爆者たちの無念の思いを背負っています。

【才木幹夫さん】
「生かされていることを無駄にしていけないなと思いながら原爆証言は今、私の一番大切な大きな仕事。とにかく健康に留意して1日でも長く証言は続けたいと思います。でも歳から考えて4、5年しかないんじゃないかと思う」

迫りつつあるタイムリミット…
それでも92歳の被爆者は亡くなった人たちの思いとともに声を出し続けていきます。