「喜んでいる場合じゃない」ノーベル平和賞 無念の思いで亡くなった被爆者の思いを背負い授賞式へ
11/20(水) 21:00
「日本被団協」のノーベル平和賞受賞が決まって1カ月余り。
被爆者の活動を記者として取材したのをきっかけに自らも被爆者運動に携わるようになった1人の被爆者がいます。
彼の思いを取材しました。
【田中聰司さん】
「79年前の広島の出来事は昔話ではないということを言いたいんです」
広島市に住む田中聰司さん、80歳。
日本被団協の代表理事を務めています。
この日は神奈川県から修学旅行で広島を訪れた高校2年生360人を前に、被爆証言を行いました。
幼少期の写真田中さんは、軍人だった父親の勤務地・山口県下関市で生まれました。
1945年8月6日。当時1歳5か月でした。
原爆投下の2日後、田中さんは母親に連れられて親族が暮らす広島市を訪れ、被爆。いわゆる「入市被爆」です。
【田中聰司さん】
「焼け野原に入っていくんだけど、爆心地から2キロくらいは全滅だから、家の跡がどこにあるかわからない」
母親は田中さんを連れて野宿をしながら親族を探しまわったといいます。
田中さんには当時の記憶はありません。
しかし、母親から聞いた悲惨な光景は田中さんの脳裏に焼き付いています。
【田中聰司さん】
「軍隊から持ってきたわずかな塗り薬をつけたりして(親族を)手当をするんだけど、(親族は)9月までに6人いて4人が亡くなった。亡くなった人は次から次へと校庭の片隅に山積みにされて石油をかけて焼かれる」
物心がついたころから田中さんはある悩みを抱えながら生きてきました。
【田中聰司さん】
「広島から出て初めて東京に行くと全国の人が集まる中で自分の立ち位置みたいなものがわかってくるじゃない。俺、被爆者なんだと。出身地を紹介しあって広島だと言ったら、原爆の時どうしていた?と聞かれる、必ず。僕は大したことはないよと、適当にごまかしていたんだけど」
東京の大学に進学し寮生活を送っていた田中さんは、あるとき、自分が被爆者であることに直面します。
【田中聰司さん】
「仲のいい友達がいたんだけど、一緒にお風呂に入って隣で体を洗っていたときに『田中、放射能ってうつらないんだろ?』って言ったんだよ。原爆投下から20年経っているのに、まだそんなことを思っているのかと思ってね。それが精神的に、俺被爆者で差別されたと思った最初」
その後は、被爆者であることを隠して生活するようになりました。
大学卒業後は、広島に戻り、地元の新聞社に就職。
原爆や平和の取材にも携わりました。
【田中聰司さん】
「(自分よりも)もっともっとひどい被爆者を知るし、小頭症の取材する時にはメモもとれなくなって胸がつまって。俺もう記者をやめようかなと思った」
新聞記者を続ける中で転機となったのは、「日本被団協」との出会いです。
【田中聰司さん】
「被爆者たちが被爆を自分の問題だけでなくて人類の問題として捉えて、人類の危機を救おうと活動している人がいるんだ、そういう人に感銘を受けた。これじゃいけないと思って」
被爆者としての自らと向き合うようになった田中さん。
「被爆者健康手帳」を取得した時には、原爆投下から50年が経っていました。
2006年に「日本被団協」のメンバーとして活動を始めておよそ20年、核兵器の恐ろしさ、そして、廃絶を訴え続けてきました。
中でも力を入れてきた活動の一つが被爆体験の継承です。
【田中聰司さん】
「死体を焼く異様なにおいと(人の)泣き声の中で、私と母の暮らしがしばらく続くんですよ」
被爆者の平均年齢は85歳を超えました。
「被爆者なき時代」は間違いなく訪れます。
”次の世代が平和への思いを引き継いでほしい…”
田中さんの願いです。
【田中聰司さん】
「平和のために自分はなにができるのか、そういうことを考えられる人間になっていただきたい。そのためにこうやって広島で学習したことも時々思い出して、振り向いていただきたい」
(自宅での田中さんと妻・波子さん)
【妻・波子さん】
「私ここの所寝てないからね、ずっとこの人の番で。呼吸がとまったら大変だと思って」
【田中聰司さん】
「逆流するんですよ、枕を高くしていないと。食べたものが逆流して。胃液がないでしょ」(咳き込む)
【妻・波子さん】
「とまらなくなる咳が…」
【田中聰司さん】
「放射線治療の後遺症」
田中さんは、50歳を過ぎてから食道がんなど6つのがんを患い、今も治療を続けています。
【田中聰司さん】
「ここにガンができてね、※口元を指して ちょうど裏側に。原爆の影響、原爆症とわかった。60歳になって。いつまたがんができるかわらない。昔話じゃないんですよ、原爆はまだ続いている」
声が思うように出なくなり、長時間話すのも苦しいのが現状です。
【田中聰司さん】
「僕がここまで生きてきたということは、無数の、無念の思いで犠牲になった人に代わって訴えることは何なのか。核兵器をなくせ、被害者を再びつくるな。私たちと同じ思い、苦しみを他の人にさせてはならないということを合言葉に、先人たちが会を作って訴えてきた活動を引き継いでいかなければいけない。できるだけ、話せる間は、語っていこうと思っています」
(ノルウェー・平和賞発表の様子)
「日本被団協」
被爆80年を前に、「日本被団協」のノーベル平和賞受賞が決まりました。
ウクライナ侵攻や緊迫化する中東情勢など世界で核兵器の脅威が高まる中での受賞です。
【田中聰司さん】
「喜んでいる場合じゃないんですよ、今。本当に。核兵器が1発も減らないじゃないですか。核保有国をテーブルにつけて話し合いの場をつくるとか、そういうことをやってほしい。そういうところに力を向けていくよう取り組む。それを呼びかけようと思っている」
核兵器廃絶に向けた一歩にしたい。
田中さんは来月ノルウェーで開かれる授賞式に参加します。
被爆者の活動を記者として取材したのをきっかけに自らも被爆者運動に携わるようになった1人の被爆者がいます。
彼の思いを取材しました。
【田中聰司さん】
「79年前の広島の出来事は昔話ではないということを言いたいんです」
広島市に住む田中聰司さん、80歳。
日本被団協の代表理事を務めています。
この日は神奈川県から修学旅行で広島を訪れた高校2年生360人を前に、被爆証言を行いました。
幼少期の写真田中さんは、軍人だった父親の勤務地・山口県下関市で生まれました。
1945年8月6日。当時1歳5か月でした。
原爆投下の2日後、田中さんは母親に連れられて親族が暮らす広島市を訪れ、被爆。いわゆる「入市被爆」です。
【田中聰司さん】
「焼け野原に入っていくんだけど、爆心地から2キロくらいは全滅だから、家の跡がどこにあるかわからない」
母親は田中さんを連れて野宿をしながら親族を探しまわったといいます。
田中さんには当時の記憶はありません。
しかし、母親から聞いた悲惨な光景は田中さんの脳裏に焼き付いています。
【田中聰司さん】
「軍隊から持ってきたわずかな塗り薬をつけたりして(親族を)手当をするんだけど、(親族は)9月までに6人いて4人が亡くなった。亡くなった人は次から次へと校庭の片隅に山積みにされて石油をかけて焼かれる」
物心がついたころから田中さんはある悩みを抱えながら生きてきました。
【田中聰司さん】
「広島から出て初めて東京に行くと全国の人が集まる中で自分の立ち位置みたいなものがわかってくるじゃない。俺、被爆者なんだと。出身地を紹介しあって広島だと言ったら、原爆の時どうしていた?と聞かれる、必ず。僕は大したことはないよと、適当にごまかしていたんだけど」
東京の大学に進学し寮生活を送っていた田中さんは、あるとき、自分が被爆者であることに直面します。
【田中聰司さん】
「仲のいい友達がいたんだけど、一緒にお風呂に入って隣で体を洗っていたときに『田中、放射能ってうつらないんだろ?』って言ったんだよ。原爆投下から20年経っているのに、まだそんなことを思っているのかと思ってね。それが精神的に、俺被爆者で差別されたと思った最初」
その後は、被爆者であることを隠して生活するようになりました。
大学卒業後は、広島に戻り、地元の新聞社に就職。
原爆や平和の取材にも携わりました。
【田中聰司さん】
「(自分よりも)もっともっとひどい被爆者を知るし、小頭症の取材する時にはメモもとれなくなって胸がつまって。俺もう記者をやめようかなと思った」
新聞記者を続ける中で転機となったのは、「日本被団協」との出会いです。
【田中聰司さん】
「被爆者たちが被爆を自分の問題だけでなくて人類の問題として捉えて、人類の危機を救おうと活動している人がいるんだ、そういう人に感銘を受けた。これじゃいけないと思って」
被爆者としての自らと向き合うようになった田中さん。
「被爆者健康手帳」を取得した時には、原爆投下から50年が経っていました。
2006年に「日本被団協」のメンバーとして活動を始めておよそ20年、核兵器の恐ろしさ、そして、廃絶を訴え続けてきました。
中でも力を入れてきた活動の一つが被爆体験の継承です。
【田中聰司さん】
「死体を焼く異様なにおいと(人の)泣き声の中で、私と母の暮らしがしばらく続くんですよ」
被爆者の平均年齢は85歳を超えました。
「被爆者なき時代」は間違いなく訪れます。
”次の世代が平和への思いを引き継いでほしい…”
田中さんの願いです。
【田中聰司さん】
「平和のために自分はなにができるのか、そういうことを考えられる人間になっていただきたい。そのためにこうやって広島で学習したことも時々思い出して、振り向いていただきたい」
(自宅での田中さんと妻・波子さん)
【妻・波子さん】
「私ここの所寝てないからね、ずっとこの人の番で。呼吸がとまったら大変だと思って」
【田中聰司さん】
「逆流するんですよ、枕を高くしていないと。食べたものが逆流して。胃液がないでしょ」(咳き込む)
【妻・波子さん】
「とまらなくなる咳が…」
【田中聰司さん】
「放射線治療の後遺症」
田中さんは、50歳を過ぎてから食道がんなど6つのがんを患い、今も治療を続けています。
【田中聰司さん】
「ここにガンができてね、※口元を指して ちょうど裏側に。原爆の影響、原爆症とわかった。60歳になって。いつまたがんができるかわらない。昔話じゃないんですよ、原爆はまだ続いている」
声が思うように出なくなり、長時間話すのも苦しいのが現状です。
【田中聰司さん】
「僕がここまで生きてきたということは、無数の、無念の思いで犠牲になった人に代わって訴えることは何なのか。核兵器をなくせ、被害者を再びつくるな。私たちと同じ思い、苦しみを他の人にさせてはならないということを合言葉に、先人たちが会を作って訴えてきた活動を引き継いでいかなければいけない。できるだけ、話せる間は、語っていこうと思っています」
(ノルウェー・平和賞発表の様子)
「日本被団協」
被爆80年を前に、「日本被団協」のノーベル平和賞受賞が決まりました。
ウクライナ侵攻や緊迫化する中東情勢など世界で核兵器の脅威が高まる中での受賞です。
【田中聰司さん】
「喜んでいる場合じゃないんですよ、今。本当に。核兵器が1発も減らないじゃないですか。核保有国をテーブルにつけて話し合いの場をつくるとか、そういうことをやってほしい。そういうところに力を向けていくよう取り組む。それを呼びかけようと思っている」
核兵器廃絶に向けた一歩にしたい。
田中さんは来月ノルウェーで開かれる授賞式に参加します。