「被爆者が一人もおらようになったら核兵器は…」病をおして核兵器廃絶訴える被爆者 ノーベル平和賞に託す

11/22(金) 20:30

ノーベル平和賞の授賞式を来月に控え、22日、県内7つの被爆者団体が日本政府に核兵器禁止条約の批准を求める署名活動を行いました。現在、入院中にもかかわらずこの署名活動に参加した県被団協の箕牧理事長の思いを取材しました。

入院中の病院から出てきたのは県被団協の理事長で、日本被団協の代表委員を務める、箕牧智之さん(82)です。

Q:きょうはどちらに?
「署名活動することになっている。核兵器禁止条約に日本政府もオブザーバー参加してほしいと。ノーベル平和賞横断幕を掲げたら少しは(道行く人も)信頼してくれるかな」

(10月11日)
ノーベル賞委員会:「日本被団協」
箕牧さん:「感激のあまり涙をこぼしたり、色々私の心の中は錯綜しております」

先月11日。ノーベル賞委員会はことしの平和賞を「日本被団協に授与する」と発表しました。
世界から「日本被団協」が注目される今を大きなチャンスと捉える箕牧さん。

箕牧さん:
「ノーベル平和賞だから全世界に伝わるんじゃないかという淡い期待を持って、特に核保有国には核兵器をやめてほしいと訴えたり」

(10月31日)
Q今日はどちらまで?
箕牧さん:
「山口県の山陽小野田市。被爆証言に。これ毎年なんよ。毎年呼んでもらっとる」

受賞後初めての被爆証言にも力が入ります。

「いつものように遊んどったらぴかっと光ったんでね、これが雷くらいにしか思わなかった。子供だから」

当時、広島市安佐北区飯室に住んでいた箕牧さん。
帰ってこない父親を捜して原爆投下の翌日に広島市に入り、被爆しました。
3歳でした。

「(父を捜すうちに)私たちが広島市内でどれだけの放射能を浴びたか。私はまあ大病にかかったんですよ。小学5年生の12月」

証言の内容は今までと変わりませんが、注目度は明らかに今までより高まっています。

「今回のノーベル平和賞を契機に、もうひと踏ん張りしないといけないぞというのが我々の考えで、とにかく世界から戦争がなくなっていかないと。核兵器をなくす」

ノーベル平和賞の受賞が決まって、海外からの取材も絶えません。

スウェーデンTV:
「(きょうの撮影は)ストックホルムの授賞式で上映されるものと、スウェーデン公共放送で上映されるものです」

この日はスウェーデン公共放送の取材です。

Q:箕牧さんは広島市内の被爆直後の様子などを見たんですか?
「それは記憶にない私には。父はほとんど語らなかった原爆のこと。母はよく語ってくれた」

長時間の取材にも体調が許す限り、応えます。
しかし、82歳。決して、体調がいい日ばかりではありません。

「きょうは特に足が痛い」

今月7日。箕牧さんの姿は病院にありました。

院長:
「これは心不全という状態で、82歳の方が飛行機に乗って(オスロに)行って。医者だけの理屈で言ったら、それは『大丈夫ですか』って言われたら大丈夫じゃない」

2年前から持病の心不全を患っています。
ノーベル賞の受賞決定後、緊張やストレスでむくみがひどくなっていました。

箕牧さん:
「日本被団協、広島県被団協、長い歴史の中でちょうど私がノーベル平和賞の時に理事を務めさせてもらっているから、私としては何としてでも行って、賞をもらうだけじゃなくて被爆証言をして世界の皆さんに核兵器をなくすように訴えたい」

授賞式に参加するため、2週間余り、入院して体調を整えることになりました。

(11月22日)
そんな中、箕牧さんが外出許可を得て向かったのは署名活動を行う平和公園。
折しも、21日にロシア軍が中距離弾道ミサイルをウクライナに発射したと発表し、世界中に緊張感が走る中での活動です。

「ほんまに(核兵器が)使われる日が来るんじゃないかと思う。被爆者が一人もおらんなったときに、どんな世界情勢になるんか心配」

焦りが募ります。

「日本は核兵器禁止条約に署名・批准していません。日本が参加するよう、署名で政府に訴えていこうではありませんか」

箕牧さんを始め県被団協など7つの被爆者団体の代表が、街頭で署名を呼びかけました。
2カ月に1度、地道に続けてきた署名活動、日本被団協の「ノーベル平和賞受賞」が決まったこともあってか、普段よりも多くの人が署名に応じました。

世界で核兵器使用の脅威が現実のものとして高まる中、箕牧さんは改めて自らの責任の重さを感じています。

「オスロから世界へ核兵器の廃絶を訴えていかないと。明日にでも(核兵器が)使われるかという厳しい(状況。長崎を最後の被爆地にしようというのが我々の考えですから」