「世界へ警告することも重要」被団協にノーベル平和賞 被爆者の声を次世代へ 想いをつなぐ被爆80年に
12/26(木) 19:17
来年の被爆80年を前に「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞したことで核廃絶へ向けて、歴史が大きく変わろうとしています。
「平和」をキーワードに1年を振り返ります。
【ノーベル賞委員会・フリードネス委員長】
「日本被団協」
日本被団協のノーベル平和賞受賞。
その予兆は、すでに3月にありました。
【石井記者】(3月@八丁座・広島市中区)
「広島市内の映画館で注目の映画『オッペンハイマー』がきょう公開です」
今年3月、日本でも公開された映画は、原爆の父と呼ばれた「オッペンハイマー」の人生と原爆開発の裏側を描き、アメリカのアカデミー賞で7部門を受賞。
広島でも半年以上のロングラン上映となりました。
映画の中で、主人公は核開発への激しい後悔を見せます。
被爆者も映画を見に駆けつけました。
【日本被団協・箕牧智之 代表理事】
「映画で世界中に広めてもらうっていう核兵器の怖さが分かるじゃろう。世界はだんだん私たちの方向に動いていると追い風を感じましたよ」
さらなる追い風は、平和公園を訪れる人の数に現れました。
原爆資料館の今年度の年間入館者は、過去最多を更新のペースで初の200万人突破の見込みです。
中でも外国人来館者が30%以上を占め急増。対応に迫られました。
【前田記者】
「こちらが今回設置された外貨の両替機です。いろんな国のお金に対応しています」
12種類の外貨を日本円に両替するシステムの導入も。
外国人の増加は、去年行われた「G7ひろしまサミット開催」が要因のひとつと言われましたが…
その展示記念館も5月にオープン。
サミットゆかりの品およそ100点が紹介され大勢の人が訪れました。
ヒロシマへの関心が高まる中、歴史を知る被爆者がまた一人亡くなりました。
慰霊碑に納められる死没者名簿に40年、名前を記し続けた被爆者の池亀和子さん。
【被爆者・池亀和子さん】
「これが供養だと思って書かせていただきました。今起きている戦争とか、それが早くおさまってほしいです」
病を押して、一筆一筆、最後まで役目を果たした池亀さん。
8月6日の平和式典を見届けた後、静かに旅立ちました。
今年、亡くなった被爆体験証言者は3人。
原爆資料館に登録するこの語り部は30人を切りました。
被爆者なき時代へ…
広島市は、危機感を抱き、そのための準備を加速させています。
【被爆者・石橋紀久子さん】
「おばあちゃんの右腕はやけどで茶色に盛り上がり、ハエが止まろうと腕の近くを飛び回っていました」
被爆者の意思を継ぐ、被爆伝承者の育成を促進。
さらに、AIなどのデジタル技術を活用し、被爆者の証言を残すなど、継承への新たな取り組みも始めました。
一方で、アメリカが核爆発を伴わない臨界前核実験を行うなど、核保有国をめぐる動きは、危機感を増し、高齢の被爆者が、訴え続けていました。
そして…
【ノーベル委員会フリードネス委員長】
「日本被団協」
その核廃絶の声をあげ続けた日本被団協が今年のノーベル平和賞に選ばれました。
【日本被団協・箕牧智之代表委員】
「感激のあまり涙をこぼしたり、色々私の心の中は錯綜しております」
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は、戦後11年の1956年、被爆者の全国組織として結成しました。
<広島県被団協 初代理事長 森瀧市郎さん(1994年92歳で死去)の活動の様子>
【長崎市で被爆 故 山口仙二さん】<国連本部 ニューヨーク 1982年>
「命がある限り私は訴えます。ノーモアウォー・ノーモアヒバクシャ」
「再び被爆者をつくるな」をスローガンに世界へも足を運び地道な草の根運動を続けてきました。
【日本被団協の代表委員を務めた 故 坪井直さん】
「核兵器廃絶のためにはね。どんなことがあっても諦めてはならない。ネバーギブアップです」
辛い過去と向き合い、核の恐ろしさを訴え続けたすべての被爆者へ贈られたノーベル平和賞。
その選出の理由は?
【ノーベル賞委員会・フリードネス委員長】
「我々にとって、日本被団協の素晴らしい活動に光を当てるとともに、核兵器が依然として問題で、人類にとって益々問題となっていることを世界に警告することも重要だった」
世界への警告。依然として続く核の脅威は、足音を大きくし、身近に忍びよっています。
2年半前、ウクライナから福山市に避難してきたアンナ・セメネンコさん。
男性は、原則ウクライナから出られないため、夫と離れ、娘二人と日本で暮らしています。
【ウクライナから避難 アンナ・セメネンコさん】
「だいたい毎日、いろんなミサイルか爆弾が、私の町に飛んできました。一昨日はもう普通の家に大きなミサイルが飛んできて、その後は4人死にました」
避難したとき、5歳だった長女は小学生に。
<授業の様子>
(先生の呼びかけ)
「エヴァ・セメネンコさん」
【長女・エヴァちゃん(7歳)】
「はい元気です」
(絵を描いているは・・・)
「ばらとハートとちょうちょ」
Q:なんでこれにしたの?
「かわいいけぇ」
Q:小学校どうですか?
<うれしそうに親指を上げる(サムズアップ)>
【アンナ・セメネンコさん】
「エヴァは日本が大好き。ソフィアにいたってはもう日本しか知らない」
<アンナさんの勉強の様子>
「7番分からなかった」
生活のためにアンナさんも日本語を必死で勉強しています。
<アンナさん仕事風景>
週に2回、仕事も見つかりました。日本での生活に少しずつ慣れていく中、いつ家族4人で暮らせるのか先は、まったく見通せません。
【アンナ・セメネンコさん】
「私が求めるのは、ただ戦争を終わらせてほしい、それだけです。それ以上何もありません」
世界では、今この瞬間も先の見えない争いが続いています。
ノーベル平和賞の受賞式で、被爆者は世界へ呼びかけました。
【日本被団協・田中熙巳 代表委員】
「想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。
みなさんがいつ被害者になってもおかしくない。あるいは、加害者になるかもしれない。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には、直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれない。これからは、私たちがやってきた運動を次の世代のみなさんが工夫して築いていくことを期待しています」
次は、あなたたちの番。
ノーベル平和賞の舞台で送られたメッセージです。
現地でスピーチを聞いた高校生平和大使の甲斐さん。
仲間と向かったのは現地の高校です。
【高校生平和大使・広島市立基町高校2年・甲斐なつきさん】
「広島から来た甲斐なつきです。私は、原爆で生き残った被爆4世です」
同世代へ曾祖父母の被爆体験を伝えました。
【甲斐なつきさん】
「家族の被爆証言を継ぐものとして、これから何ができるかということを改めて再確認させられるようなものとなりました。核兵器廃絶は誰でも思うことができるし、みんなで力を合わせれば、核兵器廃絶の思いも届くかもしれない。やはり若者がしっかり、一人ひとりが芯を持つこと、意見を持つことだと思っています」
広島で、パブリックビューイングを企画し、見守った若者で作る市民団体。
国会議員への働きかけを通して核廃絶を目指し活動してきました。
【カクワカ広島・田中美穂 共同代表】
「私自身の決意を新たにする日になったかなと、これまで以上に被爆者の皆さんの思いを自分の中に落とし込んで動いていく日になったかなと思います。つながる力だったりSNSだったり、いろんな手法を通して、若い人たちのできる強みを生かして、広げていくことが今後さらに求められるんじゃないかなと思っています」
ノーベル平和賞を機に蒔かれた平和の種。
わたしたち1人1人がそれをどうつないでいくのか。
来年は被爆80年を迎えます。
<スタジオ>
被爆80年を迎える前にこのノーベル平和賞の受賞ということになりました。当然、核廃絶への機運が高まるという声もある一方で、それだけ今世界が核兵器に対する脅威に直面をしている。そういうふうにも捉えられますね。
【コメンテーター:信友直子さん 呉市出身】
(映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」監督)
「本当にそうだと思います。でも、広島市の平和公園に今、外国人の方がたくさん来られていて、皆さん黙祷されたり、平和を願う気持ちっていうのが本当に国際的に広がってるなっていうのを広島にいたらとても感じるので、核兵器禁止条約、日本政府はオブザーバーでもいいから参加してほしいなって本当に心から願っています」
「平和」をキーワードに1年を振り返ります。
【ノーベル賞委員会・フリードネス委員長】
「日本被団協」
日本被団協のノーベル平和賞受賞。
その予兆は、すでに3月にありました。
【石井記者】(3月@八丁座・広島市中区)
「広島市内の映画館で注目の映画『オッペンハイマー』がきょう公開です」
今年3月、日本でも公開された映画は、原爆の父と呼ばれた「オッペンハイマー」の人生と原爆開発の裏側を描き、アメリカのアカデミー賞で7部門を受賞。
広島でも半年以上のロングラン上映となりました。
映画の中で、主人公は核開発への激しい後悔を見せます。
被爆者も映画を見に駆けつけました。
【日本被団協・箕牧智之 代表理事】
「映画で世界中に広めてもらうっていう核兵器の怖さが分かるじゃろう。世界はだんだん私たちの方向に動いていると追い風を感じましたよ」
さらなる追い風は、平和公園を訪れる人の数に現れました。
原爆資料館の今年度の年間入館者は、過去最多を更新のペースで初の200万人突破の見込みです。
中でも外国人来館者が30%以上を占め急増。対応に迫られました。
【前田記者】
「こちらが今回設置された外貨の両替機です。いろんな国のお金に対応しています」
12種類の外貨を日本円に両替するシステムの導入も。
外国人の増加は、去年行われた「G7ひろしまサミット開催」が要因のひとつと言われましたが…
その展示記念館も5月にオープン。
サミットゆかりの品およそ100点が紹介され大勢の人が訪れました。
ヒロシマへの関心が高まる中、歴史を知る被爆者がまた一人亡くなりました。
慰霊碑に納められる死没者名簿に40年、名前を記し続けた被爆者の池亀和子さん。
【被爆者・池亀和子さん】
「これが供養だと思って書かせていただきました。今起きている戦争とか、それが早くおさまってほしいです」
病を押して、一筆一筆、最後まで役目を果たした池亀さん。
8月6日の平和式典を見届けた後、静かに旅立ちました。
今年、亡くなった被爆体験証言者は3人。
原爆資料館に登録するこの語り部は30人を切りました。
被爆者なき時代へ…
広島市は、危機感を抱き、そのための準備を加速させています。
【被爆者・石橋紀久子さん】
「おばあちゃんの右腕はやけどで茶色に盛り上がり、ハエが止まろうと腕の近くを飛び回っていました」
被爆者の意思を継ぐ、被爆伝承者の育成を促進。
さらに、AIなどのデジタル技術を活用し、被爆者の証言を残すなど、継承への新たな取り組みも始めました。
一方で、アメリカが核爆発を伴わない臨界前核実験を行うなど、核保有国をめぐる動きは、危機感を増し、高齢の被爆者が、訴え続けていました。
そして…
【ノーベル委員会フリードネス委員長】
「日本被団協」
その核廃絶の声をあげ続けた日本被団協が今年のノーベル平和賞に選ばれました。
【日本被団協・箕牧智之代表委員】
「感激のあまり涙をこぼしたり、色々私の心の中は錯綜しております」
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は、戦後11年の1956年、被爆者の全国組織として結成しました。
<広島県被団協 初代理事長 森瀧市郎さん(1994年92歳で死去)の活動の様子>
【長崎市で被爆 故 山口仙二さん】<国連本部 ニューヨーク 1982年>
「命がある限り私は訴えます。ノーモアウォー・ノーモアヒバクシャ」
「再び被爆者をつくるな」をスローガンに世界へも足を運び地道な草の根運動を続けてきました。
【日本被団協の代表委員を務めた 故 坪井直さん】
「核兵器廃絶のためにはね。どんなことがあっても諦めてはならない。ネバーギブアップです」
辛い過去と向き合い、核の恐ろしさを訴え続けたすべての被爆者へ贈られたノーベル平和賞。
その選出の理由は?
【ノーベル賞委員会・フリードネス委員長】
「我々にとって、日本被団協の素晴らしい活動に光を当てるとともに、核兵器が依然として問題で、人類にとって益々問題となっていることを世界に警告することも重要だった」
世界への警告。依然として続く核の脅威は、足音を大きくし、身近に忍びよっています。
2年半前、ウクライナから福山市に避難してきたアンナ・セメネンコさん。
男性は、原則ウクライナから出られないため、夫と離れ、娘二人と日本で暮らしています。
【ウクライナから避難 アンナ・セメネンコさん】
「だいたい毎日、いろんなミサイルか爆弾が、私の町に飛んできました。一昨日はもう普通の家に大きなミサイルが飛んできて、その後は4人死にました」
避難したとき、5歳だった長女は小学生に。
<授業の様子>
(先生の呼びかけ)
「エヴァ・セメネンコさん」
【長女・エヴァちゃん(7歳)】
「はい元気です」
(絵を描いているは・・・)
「ばらとハートとちょうちょ」
Q:なんでこれにしたの?
「かわいいけぇ」
Q:小学校どうですか?
<うれしそうに親指を上げる(サムズアップ)>
【アンナ・セメネンコさん】
「エヴァは日本が大好き。ソフィアにいたってはもう日本しか知らない」
<アンナさんの勉強の様子>
「7番分からなかった」
生活のためにアンナさんも日本語を必死で勉強しています。
<アンナさん仕事風景>
週に2回、仕事も見つかりました。日本での生活に少しずつ慣れていく中、いつ家族4人で暮らせるのか先は、まったく見通せません。
【アンナ・セメネンコさん】
「私が求めるのは、ただ戦争を終わらせてほしい、それだけです。それ以上何もありません」
世界では、今この瞬間も先の見えない争いが続いています。
ノーベル平和賞の受賞式で、被爆者は世界へ呼びかけました。
【日本被団協・田中熙巳 代表委員】
「想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。
みなさんがいつ被害者になってもおかしくない。あるいは、加害者になるかもしれない。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には、直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれない。これからは、私たちがやってきた運動を次の世代のみなさんが工夫して築いていくことを期待しています」
次は、あなたたちの番。
ノーベル平和賞の舞台で送られたメッセージです。
現地でスピーチを聞いた高校生平和大使の甲斐さん。
仲間と向かったのは現地の高校です。
【高校生平和大使・広島市立基町高校2年・甲斐なつきさん】
「広島から来た甲斐なつきです。私は、原爆で生き残った被爆4世です」
同世代へ曾祖父母の被爆体験を伝えました。
【甲斐なつきさん】
「家族の被爆証言を継ぐものとして、これから何ができるかということを改めて再確認させられるようなものとなりました。核兵器廃絶は誰でも思うことができるし、みんなで力を合わせれば、核兵器廃絶の思いも届くかもしれない。やはり若者がしっかり、一人ひとりが芯を持つこと、意見を持つことだと思っています」
広島で、パブリックビューイングを企画し、見守った若者で作る市民団体。
国会議員への働きかけを通して核廃絶を目指し活動してきました。
【カクワカ広島・田中美穂 共同代表】
「私自身の決意を新たにする日になったかなと、これまで以上に被爆者の皆さんの思いを自分の中に落とし込んで動いていく日になったかなと思います。つながる力だったりSNSだったり、いろんな手法を通して、若い人たちのできる強みを生かして、広げていくことが今後さらに求められるんじゃないかなと思っています」
ノーベル平和賞を機に蒔かれた平和の種。
わたしたち1人1人がそれをどうつないでいくのか。
来年は被爆80年を迎えます。
<スタジオ>
被爆80年を迎える前にこのノーベル平和賞の受賞ということになりました。当然、核廃絶への機運が高まるという声もある一方で、それだけ今世界が核兵器に対する脅威に直面をしている。そういうふうにも捉えられますね。
【コメンテーター:信友直子さん 呉市出身】
(映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」監督)
「本当にそうだと思います。でも、広島市の平和公園に今、外国人の方がたくさん来られていて、皆さん黙祷されたり、平和を願う気持ちっていうのが本当に国際的に広がってるなっていうのを広島にいたらとても感じるので、核兵器禁止条約、日本政府はオブザーバーでもいいから参加してほしいなって本当に心から願っています」