爆心地に誕生したテニスコート 国際大会にアジア各国から1500人 テニスを通して戦後復興を
4/10(木) 20:30
TSS被爆80年プロジェクト「つたえるつなげる」です。
今回は、爆心地に誕生したテニスコートに着目。そこには、スポーツを通して、戦後復興を果たそうとした人たちがいました。
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
「ようこそ広島へお越しくださいました」
先月、広島市内で開催された「平和カップひろしま国際ソフトテニス大会」
国内とアジア各国から、およそ1500人の選手が集まりました。
今回は、爆心地に誕生したテニスコートに着目。そこには、スポーツを通して、戦後復興を果たそうとした人たちがいました。
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
「ようこそ広島へお越しくださいました」
先月、広島市内で開催された「平和カップひろしま国際ソフトテニス大会」
国内とアジア各国から、およそ1500人の選手が集まりました。
【韓国NH農協銀行 ユ・ヨンドン監督】
「広島大会は韓国でも有名な大会で平和カップという名前にふさわしい大会が開催されていて、毎回この大会に誇りを持って参加しています」
大会の魅力は、レベルの高さだけではありません。
【台湾代表選手】
Q:広島は初めて?
「初めてです」
Q:広島の印象は?
「きれいな街です。人もやさしい」
【韓国代表選手】
Q:この大会は楽しみですか?
「楽しみです。いつもこの大会は楽しみにしています」
【モンゴルナショナルチーム・エリカ コーチ】
「5年ぶりにこの大会に参加しています。組織委員会、主催の皆様に心より感謝しています」
「広島大会は韓国でも有名な大会で平和カップという名前にふさわしい大会が開催されていて、毎回この大会に誇りを持って参加しています」
大会の魅力は、レベルの高さだけではありません。
【台湾代表選手】
Q:広島は初めて?
「初めてです」
Q:広島の印象は?
「きれいな街です。人もやさしい」
【韓国代表選手】
Q:この大会は楽しみですか?
「楽しみです。いつもこの大会は楽しみにしています」
【モンゴルナショナルチーム・エリカ コーチ】
「5年ぶりにこの大会に参加しています。組織委員会、主催の皆様に心より感謝しています」
大会前日に開催された海外チームの歓迎会。
選手たちは、テーブルに置かれた“けん玉”に夢中です。
国境を越えた交流が、平和カップのもう一つの魅力です。
選手たちは、テーブルに置かれた“けん玉”に夢中です。
国境を越えた交流が、平和カップのもう一つの魅力です。
広島市ソフトテニス連盟によると広島では、明治時代後半、広島師範学校の教官が、放課後に、テニスを楽しんだという記録が残っています。
その後、広島のソフトテニスは、旧制中学や社会人にも普及し、中でも、めざましい活躍を見せたのは、女子のソフトテニスでした。
昭和9年、県立広島皆実高校の前身である県立広島高等女学校の森田シズエ、成田ヨシコペアが、伊勢神宮奉納大会の、中等女子と一般女子の部で優勝。
広島勢として初めて、日本選手権のタイトルを獲得しました。
その後、広島のソフトテニスは、旧制中学や社会人にも普及し、中でも、めざましい活躍を見せたのは、女子のソフトテニスでした。
昭和9年、県立広島皆実高校の前身である県立広島高等女学校の森田シズエ、成田ヨシコペアが、伊勢神宮奉納大会の、中等女子と一般女子の部で優勝。
広島勢として初めて、日本選手権のタイトルを獲得しました。
しかし、戦争で、スポーツは、空白の時代を迎えます。
戦後も、原爆の惨禍を受けた広島は、スポーツ界の復興も遅れていました。
そこに、転機が訪れます。
被爆から、4年後の1949年8月6日。
爆心地で、開催された大会。
「マッカーサー元帥杯全国庭球・卓球競技大会」大会名には敗戦後、日本に進駐していた連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサーの名が…。
当時、日本の最高権力者と言える存在でした。
戦後も、原爆の惨禍を受けた広島は、スポーツ界の復興も遅れていました。
そこに、転機が訪れます。
被爆から、4年後の1949年8月6日。
爆心地で、開催された大会。
「マッカーサー元帥杯全国庭球・卓球競技大会」大会名には敗戦後、日本に進駐していた連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサーの名が…。
当時、日本の最高権力者と言える存在でした。
【広島市ソフトテニス連盟・田中和雄 理事長】
「調べてみると米国オリンピック委員会の委員長でもあり、国際スポーツの第1人者として活躍した人だった。戦後日本が復興を果たすには、経済では難しさがあるかも知れないが、スポーツから進んでいくと割と早くいけるのではないかというところがあったと思う」
「調べてみると米国オリンピック委員会の委員長でもあり、国際スポーツの第1人者として活躍した人だった。戦後日本が復興を果たすには、経済では難しさがあるかも知れないが、スポーツから進んでいくと割と早くいけるのではないかというところがあったと思う」
マッカーサー杯のために、廃墟となった旧西練兵場に、10面のコートが作られます。
そのうち2面は人工の土を敷いたテニスコート。
3千人収容のスタンドを備え、当時、東洋一のコートと言われました。
【広島市ソフトテニス連盟・田中和雄 理事長】
「やはり聖地のような場所が必要だったと思う。コートがあると大会も開けますから戦後のソフトテニススポーツ界の発展の起因の1つがこのテニスコートだと思う」
そのうち2面は人工の土を敷いたテニスコート。
3千人収容のスタンドを備え、当時、東洋一のコートと言われました。
【広島市ソフトテニス連盟・田中和雄 理事長】
「やはり聖地のような場所が必要だったと思う。コートがあると大会も開けますから戦後のソフトテニススポーツ界の発展の起因の1つがこのテニスコートだと思う」
この時にできた現在の県庁前の南北の道路は、当時、『マッカーサー道路』と呼ばれていました。
【広島市ソフトテニス連盟・田中和雄 理事長】
「紙屋町から広島城にまで続く通りがマッカーサー通りと言われていた」
Q:まさにこの通りが?
「ここがマッカーサー通りです。街の中心部から戦後のスポーツが復興をスタートした。この西側には市民球場もできてきましたし」
【広島市ソフトテニス連盟・田中和雄 理事長】
「紙屋町から広島城にまで続く通りがマッカーサー通りと言われていた」
Q:まさにこの通りが?
「ここがマッカーサー通りです。街の中心部から戦後のスポーツが復興をスタートした。この西側には市民球場もできてきましたし」
この大会をきっかけに広島のソフトテニスは、急速に復興していきます。
昭和30年代には、広島女子商業高校・現在の広島翔洋高校が、国体で初優勝を飾り、実業団チームでは、NTT中国の前身、電電中国が、全日本選手権で、男女ともに優勝を果たすなど、広島のソフトテニス界は、黄金時代を築いていきました。
昭和30年代には、広島女子商業高校・現在の広島翔洋高校が、国体で初優勝を飾り、実業団チームでは、NTT中国の前身、電電中国が、全日本選手権で、男女ともに優勝を果たすなど、広島のソフトテニス界は、黄金時代を築いていきました。
そして、1994年、広島で開催されたアジア競技大会で、初めて、ソフトテニスが正式種目となったのです。
被爆から80年、爆心地に誕生したコートは、戦後の復興を見守ってきました。
コートを見つめる広島県ソフトテニス連盟の今井誠則会長。
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
Q:こんなコートはないでしょうね?
「ないでしょうね」
被爆から80年、爆心地に誕生したコートは、戦後の復興を見守ってきました。
コートを見つめる広島県ソフトテニス連盟の今井誠則会長。
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
Q:こんなコートはないでしょうね?
「ないでしょうね」
最終日のお別れパーティー、毎回行われる恒例の催しがあります。
<選手たちのダンス>
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
「各国の選手がやり比べというか、ダンスを始めると見ている方も一緒になって同じ踊りを賑やかにやるという」
【韓国代表選手】
「選手がたくさんいてびっくりしました。コートもすごくきれいだし、雰囲気もとてもよかったので来年もまた来たいと思います」
「日本の選手たちの熱意がすごくよかった。楽しかったです」
【台湾代表選手】
「すごく勉強になった。日本の選手のチーム一丸となった姿などが勉強になってとてもよかった」
<選手たちのダンス>
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
「各国の選手がやり比べというか、ダンスを始めると見ている方も一緒になって同じ踊りを賑やかにやるという」
【韓国代表選手】
「選手がたくさんいてびっくりしました。コートもすごくきれいだし、雰囲気もとてもよかったので来年もまた来たいと思います」
「日本の選手たちの熱意がすごくよかった。楽しかったです」
【台湾代表選手】
「すごく勉強になった。日本の選手のチーム一丸となった姿などが勉強になってとてもよかった」
【広島県ソフトテニス連盟・今井誠則 会長】
「平和というのは人々の交わり交流があって初めて成り立つし、それは単なる観光のみならず、スポーツなり、芸術なり、そういうものでどんどん交流を図っていくことが一番の平和につながると思う。未来永劫続けるべきだし、続くとも思っている」
爆心地に誕生したテニスコートを舞台にスポーツを通した平和への思いがこれからも繋がっていきます。
<スタジオ>
このテニスもそうですし、まさにカープのルーツもそうですけれども、木村さんこの広島の戦後の復興とスポーツの力っていうのは、もう切っても切れないものがありますね。
【コメンテーター:エディオン女子陸上部アドバイザー・木村文子さん】
「本当に平和であるからこそ、スポーツができる環境があるっていうことに感謝しながら選手たちは競技をしていると思うんですけれども、ソフトテニスっていうのは、広島でも本当に歴史のある強豪のスポーツなんですよね。なので、海外の方も楽しかったと言ってくれるような、そんな場所であり続けてほしいなというふうに感じます」
「平和というのは人々の交わり交流があって初めて成り立つし、それは単なる観光のみならず、スポーツなり、芸術なり、そういうものでどんどん交流を図っていくことが一番の平和につながると思う。未来永劫続けるべきだし、続くとも思っている」
爆心地に誕生したテニスコートを舞台にスポーツを通した平和への思いがこれからも繋がっていきます。
<スタジオ>
このテニスもそうですし、まさにカープのルーツもそうですけれども、木村さんこの広島の戦後の復興とスポーツの力っていうのは、もう切っても切れないものがありますね。
【コメンテーター:エディオン女子陸上部アドバイザー・木村文子さん】
「本当に平和であるからこそ、スポーツができる環境があるっていうことに感謝しながら選手たちは競技をしていると思うんですけれども、ソフトテニスっていうのは、広島でも本当に歴史のある強豪のスポーツなんですよね。なので、海外の方も楽しかったと言ってくれるような、そんな場所であり続けてほしいなというふうに感じます」