2024年3月8日(金)
【よくある相談シリーズ】AI時代でも英語を学ばせるべきでしょうか?
●テクノロジーとうしろめたさ。
最近は、ChatGPTなどに代表されるようなAI技術によって私たちの生活も随分と変わってきました。私の仕事は大学の教員ですが、学生の作成するレポートもそれが本人によるものなのか、それともAIが書いたものなのか区別がつかなくなってきています(幸か不幸か、これまでのところAIでこしらえたレポートを提出された経験は(おそらく)ありませんが)。
私の専門である英語教育でもAIの存在は大きくなっています。AIを使った翻訳や自動添削は十分実用に足るレベルに到達しています。もし英語を使う目的が単に「英語で情報を理解する・表現する」ことだけであれば機械にやらせてもさほど大きな問題は生じません。技術的には英語のプロレベルの仕事が今後AIによってできる訳ですから、人間が大量の時間をかけ、苦労して英語を学ぶことに万人が納得できるような意義を見出すのは困難です。英語にそんなに時間をかけるのであれば、他のことをやった方が良いという意見は出て当然だと思います。
テクノロジーは「人間の限られた能力ではできないこと」を可能にしてくれます。では私たちが(英語をはじめとする)外国語を学ぶことの意義はなんでしょうか? これは私の意見ですが、「人間にとって意思疎通における困難さの存在を痛感し、そこから他者との交わり方に思いをはせるようになる」ことが外国語を学ぶことの意義ではないかと考えています。
これは外国語だけに限りませんが「自分のことをだれも分かってくれない」「子どもに○○と言ったのに、全然親の気持ちをくんでくれない(この逆もしかり)」「自分を理解してくれる人はこの世に1人もいない」など、私達の生活は「断絶」とでも呼べるようなコミュニケーションの失敗に満ちています。それもそのはず、実はコミュニケーションなんてめったに成功するものではないのですから(むしろ「意思疎通ができた」と思えるほうが奇跡的なのかもしれません)。私達は一生をかけて、山ほどの失敗を繰り返しながら、「他人と自分は想像を絶するほど違う存在であること」を学んでいくのです。
外国語で他者と交わる時に大切なのは「自分の発するメッセージは理解されないかもしれない。だからしぶとく、丁寧に言葉を紡ぐ」という姿勢です。外国語は私達にとっては「異質なコード体系」です。私達は自分の思いを異なる言語に移し替える際に、自分の伝えたいメッセージやニュアンスが失われるのを目の当たりにし、「とまどい」や「痛み」を感じます。では、この「とまどい」や「痛み」は避けるべきものでしょうか。私はそうは思いません。「とまどいながら生きる」ことを忘れてしまった人間は、「他者の他者性」に鈍感であるがゆえに、他者に対して極めて残酷な態度をとるかもしれません。「とまどい」や「痛み」を伴う暮らしは居心地の悪いものですが、人間は日々の生活の中で幾分かの不全感を感じながら生きているくらいが良いのではないでしょうか。
最近は、ChatGPTなどに代表されるようなAI技術によって私たちの生活も随分と変わってきました。私の仕事は大学の教員ですが、学生の作成するレポートもそれが本人によるものなのか、それともAIが書いたものなのか区別がつかなくなってきています(幸か不幸か、これまでのところAIでこしらえたレポートを提出された経験は(おそらく)ありませんが)。
私の専門である英語教育でもAIの存在は大きくなっています。AIを使った翻訳や自動添削は十分実用に足るレベルに到達しています。もし英語を使う目的が単に「英語で情報を理解する・表現する」ことだけであれば機械にやらせてもさほど大きな問題は生じません。技術的には英語のプロレベルの仕事が今後AIによってできる訳ですから、人間が大量の時間をかけ、苦労して英語を学ぶことに万人が納得できるような意義を見出すのは困難です。英語にそんなに時間をかけるのであれば、他のことをやった方が良いという意見は出て当然だと思います。
テクノロジーは「人間の限られた能力ではできないこと」を可能にしてくれます。では私たちが(英語をはじめとする)外国語を学ぶことの意義はなんでしょうか? これは私の意見ですが、「人間にとって意思疎通における困難さの存在を痛感し、そこから他者との交わり方に思いをはせるようになる」ことが外国語を学ぶことの意義ではないかと考えています。
これは外国語だけに限りませんが「自分のことをだれも分かってくれない」「子どもに○○と言ったのに、全然親の気持ちをくんでくれない(この逆もしかり)」「自分を理解してくれる人はこの世に1人もいない」など、私達の生活は「断絶」とでも呼べるようなコミュニケーションの失敗に満ちています。それもそのはず、実はコミュニケーションなんてめったに成功するものではないのですから(むしろ「意思疎通ができた」と思えるほうが奇跡的なのかもしれません)。私達は一生をかけて、山ほどの失敗を繰り返しながら、「他人と自分は想像を絶するほど違う存在であること」を学んでいくのです。
外国語で他者と交わる時に大切なのは「自分の発するメッセージは理解されないかもしれない。だからしぶとく、丁寧に言葉を紡ぐ」という姿勢です。外国語は私達にとっては「異質なコード体系」です。私達は自分の思いを異なる言語に移し替える際に、自分の伝えたいメッセージやニュアンスが失われるのを目の当たりにし、「とまどい」や「痛み」を感じます。では、この「とまどい」や「痛み」は避けるべきものでしょうか。私はそうは思いません。「とまどいながら生きる」ことを忘れてしまった人間は、「他者の他者性」に鈍感であるがゆえに、他者に対して極めて残酷な態度をとるかもしれません。「とまどい」や「痛み」を伴う暮らしは居心地の悪いものですが、人間は日々の生活の中で幾分かの不全感を感じながら生きているくらいが良いのではないでしょうか。
●英語で迷ってみよう。
では英語での意思疎通において、私たちはどのような違和感を感じ、それにどう向き合っていくのでしょうか。今回はその中でも「メッセージの組み立て」について議論しようと思います。
私は自分の授業で、「英語のコミュニケーションにおいて単なる逐語訳でしのごうとするのは避けよう」と言っています。自分の発する言葉が「どのような状況で」「どのような相手に」用いられているかを意識する必要があるということです(ここではあえて「どのような目的で」とは書いていません。話し手の発話意図は必ずしも話し手の想定どおりに聞き手には解釈されない場合があるからです)。
コミュニケーションは真空地帯に字面だけが泳いでいるような状況とは異なります。話し手と聞き手、書き手と読み手は「相互に歩み寄る」態度をもちながら、行き着く先の見えない言語的「社交ダンス」を踊ります。
例えば、もし皆さんの親友が身内を亡くされた時、あなたはその方にどういう言葉をかけますか。「お悔やみ申し上げます」「ご愁傷様です」という言葉がけもあるでしょう。でもこれが唯一の正解ではありません。もし親友が憔悴しているようであれば「大丈夫?」と声をかけることがあるかもしれません。そしてこの状況における言葉の使用には「こう言えば間違いない」という絶対解があるわけではありません。仮にこのやりとりで親友が安堵した表情をしたとしても、皆さんはその人と別れた後で「あんな言い方しなければ良かった」「他に言うべきことがあったんじゃないか」とくよくよするかもしれません。
コミュニケーションというものは「耳に聞こえる(=音声)」「目に見える(=文字)」結果だけでなく、発言者の状況判断や価値観があらわになる営みなのです。そしてこの価値観は実に不確かなものなのです。
現在、小学校でも外国語(実質的には「英語」)の授業が行われています。これは私見ですが、英語の授業で子どもたちには「楽しみながら、とまどう」姿勢を育ててほしいと考えています。日本語と英語という大きく異なる言語間のギャップを迷いながら超えていくことで、不確かさに耐える力を身につけてほしいと私は願っています。
日本語で言いたいことはあるのだけど、それを英語にできないことはよくあります。もちろん時間をじっくりかけて調べれば良いのでしょうが、相手を目の前にしたやりとりとなるとそうもいきません。以下、私が考える「英語のメッセージの組み立て方」におけるルールをご紹介します。
では英語での意思疎通において、私たちはどのような違和感を感じ、それにどう向き合っていくのでしょうか。今回はその中でも「メッセージの組み立て」について議論しようと思います。
私は自分の授業で、「英語のコミュニケーションにおいて単なる逐語訳でしのごうとするのは避けよう」と言っています。自分の発する言葉が「どのような状況で」「どのような相手に」用いられているかを意識する必要があるということです(ここではあえて「どのような目的で」とは書いていません。話し手の発話意図は必ずしも話し手の想定どおりに聞き手には解釈されない場合があるからです)。
コミュニケーションは真空地帯に字面だけが泳いでいるような状況とは異なります。話し手と聞き手、書き手と読み手は「相互に歩み寄る」態度をもちながら、行き着く先の見えない言語的「社交ダンス」を踊ります。
例えば、もし皆さんの親友が身内を亡くされた時、あなたはその方にどういう言葉をかけますか。「お悔やみ申し上げます」「ご愁傷様です」という言葉がけもあるでしょう。でもこれが唯一の正解ではありません。もし親友が憔悴しているようであれば「大丈夫?」と声をかけることがあるかもしれません。そしてこの状況における言葉の使用には「こう言えば間違いない」という絶対解があるわけではありません。仮にこのやりとりで親友が安堵した表情をしたとしても、皆さんはその人と別れた後で「あんな言い方しなければ良かった」「他に言うべきことがあったんじゃないか」とくよくよするかもしれません。
コミュニケーションというものは「耳に聞こえる(=音声)」「目に見える(=文字)」結果だけでなく、発言者の状況判断や価値観があらわになる営みなのです。そしてこの価値観は実に不確かなものなのです。
現在、小学校でも外国語(実質的には「英語」)の授業が行われています。これは私見ですが、英語の授業で子どもたちには「楽しみながら、とまどう」姿勢を育ててほしいと考えています。日本語と英語という大きく異なる言語間のギャップを迷いながら超えていくことで、不確かさに耐える力を身につけてほしいと私は願っています。
日本語で言いたいことはあるのだけど、それを英語にできないことはよくあります。もちろん時間をじっくりかけて調べれば良いのでしょうが、相手を目の前にしたやりとりとなるとそうもいきません。以下、私が考える「英語のメッセージの組み立て方」におけるルールをご紹介します。
こうすることで、簡単な英語を使って自分の言いたいことを表現できます。もちろんニュアンスは異なりますし、この英文は幼く響くかもしれません。でも、この「もどかしい物足りなさ」を感じることが外国語学習の醍醐味ともいえます。私たちは時間をかけて、この違和感と付き合いながら、自分の言いたいことや自分の人間性がより伝わるように英語の力をつけていくことが求められます。英語学習、たしかに大変ですけれど、この複雑さに付き合っていける方が増えてくると、随分と暮らしやすい社会になるのではないでしょうか。
- 平本哲嗣
- 広島大学教育学部卒業、広島大学大学院修了。博士(教育学)。専門領域は初等・中等英語教育、英語教育政策、ICT利用の英語教育。文部省交換留学生として1991〜1992年に英国オックスフォード大学に留学。現在、安田女子大学教育学部児童教育学科にて初等教員養成にあたっている。